2024/5/29


「禿岳」快晴の山開き

 大崎市鳴子温泉鬼首と山形県最上町にまたがる禿岳(標高1261・7メートル)の山開きが、26日に行われた。朝から雲一つない青空に恵まれ、市内外から訪れた登山愛好者約70人が深緑の山道と鬼首カルデラの絶景を楽しんだ。山開きに先立ち、麓のオニコウベスキー場センターキューブ前で安全祈願を実施。山頂に不動明王が祭られていることから、関係者合わせて約100人が読経に合わせて焼香し、シーズン中の無事故を願った。その後、参加者はバスで県境にある標高796メートルの花立峠登山口まで行き、山頂へ向けて出発。暖冬の影響で山道に残雪はなく、眼下に広がる鬼首カルデラの森林や田園、栗駒山や月山も見える奥羽山脈の大パノラマを楽しんだ。

プールで魚つかみどり

 大崎市古川北小プールで26日、「さかなのつかみどり大会」が開かれた。参加した同校の児童約150人は青空の下、プールサイドから響く声援を受け、全身ずぶぬれになってイワナ、コイを懸命に追いかけた。子どもたちに楽しい思い出を-と、市古川長岡地区地域づくり協議会と同地区公民館が企画しているイベント。震災やコロナ禍で中止になった年もあるが、ことしで13回目。プールに放されたのは、体長25センチほどのイワナ約1400匹と体長約70センチのコイ15匹。イワナは栗原市花山地区、コイは大崎市三本木からそれぞれ取り寄せたという。児童たちは学年ごとに挑戦。1年生は足元に魚が近付いても不安そうに手を伸ばしていたが、学年が上がるに従って水深20㌢ほどのプールを元気に走り回り、魚を一気に追い込んでいた。見守る保護者も「後ろにいるよ。しっかり両手でつかんで」と〝援護射撃〟。自宅から持参したバケツやクーラーボックスは、魚でいっぱいになっていった。

卒業生も参加し全校田植え

 南郷高の全生徒30人が23日、校内の田んぼで田植えを行った。全校生徒で行うのは同校初の試みで、3年生が後輩たちと力を合わせて取り組んだ。昨年までは3年生の学年行事だったが、生徒数減少を受けて全校に広げた。教職員や同窓会員にも声を掛け、総勢約60人が集まった。水田3アールにはだしで足を踏み入れた生徒たちは「よーいドン」のピストルの合図に合わせ、長さ20㌢ほどのササニシキの苗を土中に差し入れていった。植える深さについて3年生がアドバイスする姿も見られた。

 

園児に防災絵本読み聞かせ

 東日本大震災の津波で娘を亡くした女性が27日、大崎市古川沢田のわんぱく保育園(園児数87人)で、震災を題材にした防災絵本の読み聞かせを行った。亡くなった子どもと同年代の園児たちとその保護者は、実際にあった悲惨な出来事に心を痛めていた。読み聞かせ会を主催したのは、石巻市の日和幼稚園遺族有志の会と、全国で未就学児の命を守る地域防災を啓発している一般社団法人Bird′s−eye(バーズアイ)。わんぱく保育園が有志の会に依頼したもので、県北で開かれるのは初めて。有志の会は、バス送迎中に津波に襲われて亡くなった幼稚園児の遺族らで組織。この日は長女の愛梨ちゃん(当時6)を亡くした佐藤美香さん(49)が、保育園の年長、年中児計33人に、震災や津波の出来事を題材にした紙芝居と絵本を読み聞かせた。園児たちは佐藤さんの語りにじっと耳を傾け、真剣なまなざしで聞き入っていた。年長の三浦稀ちゃん(6)は「地震の放送が鳴っているのに、バスが海の方に行ったのが悲しかった」と話していた。

 

「こけし工人写真集」出版

 仙台市泉区の写真家、村上勇一郎さん(73)はこのほど、鳴子こけしなどの制作風景を収めた「東北の伝統工芸を守るこけし工人写真集」を出版した。のみを巧みに操る手元や飛び散る木くず、鬼気迫る工人の表情などを捉えた写真が収録されている。村上さんが工人に関心を抱いたのは、蔵王町の「全国伝統こけし ろくろまつり」でこけし作りの実演に触れたのがきっかけ。定年退職後の2016年から本格的に撮影を始めた。写真集はA5判、144ページで、オールカラー。23年までに撮影した東北11系統の伝統こけし工人計88人を収録しており、このうち鳴子系は17人。のみを当てたり筆を走らせたりして制作している様子を切り取った作品は、微妙な力加減が見て取れるよう、手元に焦点を合わせている。「指先に神経を集中させて伝統こけしを作り上げていく姿に魅了された」からだ。

 

将来は文字をそば街道に

 栗原市栗駒文字に23日、手打ち10割そばが売り物の「そば処もんじ 永左エ門」がオープンした。店主はこの春に文字郵便局長を退職した菅原敏元さん(65)。第二の人生で地域活性化に貢献しようと、自宅隣にある古民家を一部改装した。開業のきっかけは、古文書「奥羽観蹟聞老志」に記された「二迫文字村で上品なソバが採れた」という趣旨の文献。菅原さんは、持続可能な地域活性化策の一貫として、休耕田などを活用したソバの栽培が行われ、10年後には第二、第三のそば屋が開業し「文字がそば街道に」と夢を膨らませている。